日本人がもっとも愛する妖怪「河童」


背中には甲羅を背負い、手足には水かき。鋭い目にくちばしを持ち、頭には水の入ったお皿がある。
相撲ときゅうりが大好きで、ときに人を助けたりもするーー。
全国各地に伝承が残り、ミイラや足跡などの物証も数多く残されている伝説の妖怪「河童」とは一体何者なのか。

▼目次
戦後にもあった河童の目撃例
河童が残した物証
異能の持ち主としての「河童」

1 戦後にもあった河童の目撃例

河童は日本各地で古くからその存在が伝えられてきた。
そもそも「河童」という名称自体が総称で、日本全国、その地域によってそれぞれ異なった呼び名で呼ばれている。

・みんつち(北海道)
・めどち(東北地方)
・かぶそ、かわっそー、てがわら(北陸地方)
・かわらんべ(関東地方)
・祇園坊主(東海地方)
・えんこう(中国・四国地方)
・がらっぱ、ひょうすべ、さんぼん(九州地方)

これらのほかにも、渕猿(広島、岩手)、川猿(静岡)、かわえろ(岐阜)、てなが(島根)など、例を挙げたらきりがない。
いかに日本が狭い国土とはいえ、交通機関が発達したのはわずか100年ほど前のこと。
基本的には徒歩で移動せざるを得なかった江戸時代までに、これほど全国で存在が認知されるというのは、ただ事ではない。

知性も理性も持ち合わせた人間が、その存在を認めるためには、それなりの説得力を持った証拠が必要だ。
最高の「証拠」は、実際に目の前に見る、という第一次遭遇だろう。
「河童」という言葉が日本の歴史上、初めて書物に記載されたのは、室町時代の辞書「節用集」「下学集」であるとされる。
ここでは「獺(かわうそ)老いて河童(かはらう)となる」と記されている。

「下学集」は全2巻の国語辞典だ。この辞典が編纂されている段階で、当時の人々の間で河童の存在が一般的で広く知られていることが、ここから推測される。現在でも「あの言葉が『広辞苑』に初めて掲載された」と話題になることがある。それと同じと考えていい。
となれば、実際に「河童を見た」または「河童を見たという話を聞いた」、という経験を日本人がしていたのは、室町時代以前と考えられる。

室町時代に編纂された「下学集」

古い時代の目撃例としては、平安時代、東北地方を侵略するために遠征してきた坂上田村麿と蝦夷の戦いの際、河童が蝦夷側に属して戦ったという伝承が残っている。
また、各地で堤防修築などの水防工事を河童が手伝ったという伝承も広く残されている。
これらの工事に関しては、被差別民の存在が隠されていると指摘する研究者もいる。
正規の人員として人件費を使えないケースに、被差別民を活用し工事を進め、これを「河童の手伝い」として弁明したのでは、という説である。

長野県伊那郡近辺の奇談を収めた「信濃奇談」には、天正年間(1573〜1592年)に、羽場村(現在の辰野町)で捕らえられた河童について書かれている。
天竜川のほとりに放しておいた馬を河童が川に引きずり込もうとするが、馬が暴れて河童は引きずられ、人間に捕まってしまう。
馬屋の柱に縛り付けられた河童を不憫に思った村人が逃がしてやると、その恩に報いるため、川魚などを戸口に置いていくようになったという話だ。
馬に執着する、相撲を好む、時には人間の女を嫁に取ろうともする。
怒れば仕返しをし、助けられれば恩を返す。
妖怪でありながら、どこまでも人間臭く、愛らしく、そしてどこか哀しいところがある。

河童の持つもう一つの特徴に、近現代にいたるまで目撃例が多発していた点が挙げられる。
柳田国男が集めた民話集「遠野物語」には明治時代の河童目撃談が掲載されているし、新聞にもたびたび目撃例が残されている。
驚くことに、20世紀にはいってもまだ、目撃例がある。
1985年8月1日の夜、長崎県対馬で帰宅途中の自転車に乗った老人が、家の近くを流れる久田川沿いの草むらから現れた身長1メートルほどの奇妙な生物を目撃している。
ザンバラ髪で全裸姿のその生物は、そのまま川に飛び込み姿を消した。老人は、子どもが水遊びでもしているのだろうと、大して気にもとめなかった。

長崎県旧下県郡厳原町久田地区の航空写真


ところが翌日早朝、釣りに出かけようと家を出た老人は、昨夜、子どもを見かけた川沿いの小道に奇妙な足跡を見つける。
50個ほど残されたその足跡は、小さく濡れた黒いシミとなり残されている。
足跡は入り江の淵から昨晩、子どもを見かけた草むらの当たりまで約20メートルの距離にわたって続いていた。
奇妙なものだと思いながらも、釣り場へ急いでいた老人はそのまま釣りへと向かっている。
釣りを終え戻ってきた老人は、真夏の炎天下にもかかわらず、まだ足跡がその場に残っているのを見て驚いた。
足跡に恐る恐る触れてみると、水だけではなく、なにか粘り気のある茶褐色の液体だった。
その足跡は、長さ約20センチ、幅約10センチの三角形。
その足跡は、久田川の対岸でも発見された。
河童の足跡の話は町役場と警察にも届けられ、現場検証が行われた。
足跡の液体も採取はされたが、成分分析が行われることはなく、廃棄されてしまったという。

2 河童が残した「物証」

◎松浦一酒造の「ミイラ」

河童ほど多くの「物証」を残した妖怪も例がない。
その一つの例が「詫び証文」だ。

河童が人間の娘に恋をして「嫁に来い」と迫る。
娘は断る。
その話を聞いた娘の父親が怒って(または断られた腹いせに娘を殺した河童に怒って)、包丁を持って河童を脅す。
河童が負け「詫び証文」を書く。
以降、お詫びに魚などの贈り物がたびたび届けられることになった。
という物語の伝承が、全国各地に残っている。
また、近隣で悪さを働いていた河童を、名刹の住職(またはお地蔵さん)が懲らしめ、前非を悔い改めた河童が詫び証文を書く、という展開の伝承も、広く言い伝えられている。
残念ながら、証文自体の物証は残っていないが、テレビもラジオもない時代、娯楽に飢えていた彼らの心を楽しませるエンタテインメントのひとつとして、祖母から孫へ、またその孫へと伝承されていき、広がっていったに違いない。

一方「河童のミイラ」は、全国各地にいまも残っている。
そのほとんどが(またはそのすべてが)、猿などを使ったダミーだろう。
しかし、実際に異形のミイラを目の前にした当時の人たちは、ひっくり返るほど驚いたことは想像に難くない。
そして、河童の存在を心から信じるようになったに違いない。

佐賀県伊万里市のの松浦一酒造には、日本でもっとも有名な河童のミイラが保管されている。
1716年に創業した松浦一酒造が、1953年に屋根の葺替え工事を行った際、梁の上にくくりつけられている「河伯」と書かれた箱が発見される。開けてみると、奇妙な動物のミイラが入っていた。
松浦一酒造の公式ホームページでは、その当時の様子が語られている。

我が家にどうしてこのような不思議なカッパがあるかと由来をたどってみますと、田尻家は私で17代にあたりますが、昔から当家には何か珍しいものがあるらしいという言い伝えがありまして、それが何でどういうものかは皆目わからぬままに何代も過ぎて参りました。

ところが、ちょうど昭和28年に母屋の屋根の葺き替え工事中に、大工の棟梁が「梁の上にこんなものが…」と持ってきたのがボロボロの紐でくくった黒い箱。蓋をとると中からなんとも奇妙な動物のミイラが出てきました。

最初は一同ビックリ仰天。
更に黒い箱を調べてみると、箱には「河伯」と墨書きの二文字が書かれてあります。ものの本によればこれが本当のカッパという文字だということで、カッパであることが判明しました。

http://www.matsuuraichi.com/matsuuraichi-yurai.html
松浦一酒造のミイラ(公式HPより)

そのミイラの姿は、体調約70cm。
頭がい骨は皿のようにくぼみ、背中には16個の背骨が突出し、一見甲羅のようにも見える。
足は前後で4本。特に前足は指が5本に対し、後足には指が3本しかなく、指と指の間には水かきがついている。
酒蔵といえば水。水を象徴する妖怪が、酒蔵に長年眠っていたというのは、なんともふさわしい話ではないか。
松浦一酒造では、河童コレクションとしてミイラも含めた収蔵品を一般に公開している。
事前予約すれば、酒蔵も案内してくれるそうだ。

◎瑞龍寺の「ミイラ」

大阪市浪速区の瑞龍寺にも河童のミイラは眠っている。
瑞龍寺では一時期、「水神」として祀っていた。
この河童のミイラは、1680年に瑞龍寺に奉納されたとされる。
1878年と1975年に木箱を新調した際、中身を入れ替えたときに、新調した年月日と子孫の名前が箱書きとして残されていたことから判明したという。
河童のミイラは体長71センチ。
全身はこげ茶色で、手足は細長く指は長い。
魚類をにた顔立ちをしており、大きく裂けた口からは無数のとがった歯が覗いて見える。
赤茶けた髪の毛も薄く残っており、不気味な印象を見たものに与える。
残念ながら、現在一般公開はされていない。

瑞龍寺のミイラ(大妖怪展」朝日新聞社 2000年より)

◎曹源寺「河童の手のミイラ」

東京都台東区松が谷にある曹源寺は、別名「かっぱ寺」という。
この曹源寺には「河童の手のミイラ」が残されている。

河童の手のミイラは曹源寺で見られる(公式HPより)

曹源寺は1588年に創建された。
1800年頃、曹源寺近辺は水はけが悪く、近隣住民は難儀していた。
それを見かねた合羽屋喜八が私財を投じて治水工事を行った。
その工事の際、隅田川に暮らしていた河童が工事を手伝ったと言い伝えが残っている。
喜八は1818年に亡くなり曹源寺に葬られた。
以来、曹源寺は「かっぱ大明神」として商売繁盛、火水難除などの霊験あらたかで厚い信仰を集めている。

3 異能の持ち主としての「河童」

河童の伝説として多く見られるもののひとつが、何らかの異能の技術を人間にもたらすケースだ。
骨接ぎの方法や打ち身・ねんざの膏薬を人間に与える河童が全国各地に存在する。
たとえば、茨城県の牛久沼には、古くから「悪さをする河童をこらしめたら改心し、万能の薬の作り方を人間に教えてくれた」という言い伝えが残っている。
埼玉県の小鹿野町では、水難を引き起こす河童を武士がこらしめたところ改心し、岩間から清水を出すと誓ったところ、以後は水難もなくなり、現在でも水が湧き出しているという。

河童には、人間を襲い尻子玉を抜く、女性を襲う、馬などの家畜を襲う、農作物を荒らす、子どもをさらう、水難事故を引き起こすなど、危害を加える活動を取る。
その一方で、改心するとその異能(怪力も含めて)を発揮し、人間を助けるヒーローに転ずる。
先述した公共工事において人足不足を補うための方便として使われた延長線上に河童の正体はあると考えていいだろう。
周囲の人々から見下されている被差別民。見下している人々も、隠しきれない後ろめたさを抱えていたはずだ。
そこで、会心の機会を与える、または手を借りることで手柄を立てる機会を与える。
その結果、周囲の見方も改善し、軋轢も減って「河童」にとっても得。
集落の文化にない特殊技能を「河童」から授かった人々も得。
そんな関係性が、河童と人々の間にはあったのではないか。

※参考文献:「怪異の民俗学③河童」小松和彦編/「本当は恐い! 日本むかし話 知られざる禁忌譚」(深層心理研究会著)/「UMA事件クロニクル」ASIOS著/河童の姿を追って : 民俗伝承に見る庶民の心」椎名慎太郎著