stonehenge

オカルト大国・イギリスの5つの謎


イギリスは数多くの謎や不思議をその歴史に内在している。
イギリス国内には、現在でも幽霊が現れる建物が多数存在している。
そのような建物を、イギリス人たちは忌避するのではなく、むしろ生活に取り入れ、楽しみ、自慢し合う風土すらある。
そんなオカルト大国・イギリスが誇る数多い謎の中から、5つをセレクトしてご紹介しよう

▼目次

イギリス最古の石造遺跡「ストーンヘンジ」
斜面に残された芸術「ヒルフィギュア」
現代に生き残る「悪魔崇拝者」
死後も書き続けたチャールズ・ディケンズ
20世紀最大級のミステリー「ネッシー」



1.イギリス最古の石造遺跡「ストーンヘンジ」

ロンドンから西に約200km、イギリス南部のソールズベリーからさらに北西に13kmほど行ったアムズベル村に、イギリス最古の石造遺跡「ストーンヘンジ」はある。
ストーンヘンジは、直径114メートルの円形の堀の内部に、高さ平均4メートル、重さ30トンに迫る巨石を、直径30メートルの円形に約30個立てられており、さらにその上に横倒しになった石を置くという形で形成されている。
この巨石建造物は、紀元前2500年から1600年頃の間に作られたのではないかと推測されており、さらに巨石群を囲む土塁と堀は、紀元前3100年頃にまで遡るのではないかと考えられている。

ストーンヘンジ

ストーンヘンジ最大の謎とされているのは、その建築の意図、そして目的だ。
初期の多くの歴史家は、魔術師マーリンが巨人を使役して作らせた、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできた、といった超自然的な物語を後世に伝えてきた。このほか、悪魔が作ったとするものもある。
その建設意図や目的は、新石器時代から青銅器時代という、文字を持たない人々が暮らした時代の遺跡のために資料が残されておらず、今に至るも判然としない。
研究の結果、もっとも有力とされている説は、太陽礼拝のための拝殿だというものである。
この説では、ストーンヘンジは全体で巨大な日時計になっていると主張している。

どのようにしてこれだけの巨石を積み上げたのか、という謎も残る。
ある研究者の試算によると、ストーンヘンジすべてを完成させるためには、149万7680人の労働力を必要とする計算になるという。

この巨大遺跡は、多くの謎を抱いたまま1986年に世界文化遺産に登録され、いまもその姿をイギリスの大地に横たわらせている。

2.斜面に残された芸術「ヒルフィギュア」

イギリスの丘陵地帯には、太古の昔から巨大な地上絵が描かれている。
その全体像は上空からではなく、向かいあった斜面や遠方などの地上から見ることを意識して作られているところが特徴だ。
有名なヒルフィギュアには「アフィントンの白馬」や「サーンアバスの巨人」などがある。

イングランド南部、ウォンテジの西方約8 km、鉄器時代の砦跡であるアフィントン丘(Uffington Castle)の斜面に、「アフィントンの白馬」は刻まれている。
全長は111メートル。その巨大な馬の地上絵は、北の方角、特にグレイトコックスウェル村から、もっともよく見える。

アフィントンの白馬

1994年の考古学調査時に行われた年代測定では、約3000年前の青銅器時代から存在しているとの結果が算出されている。
作られた目的は、ストーンヘンジ同様明確な資料は残されていないために分からない。
研究者の間では、アフィントン丘に関係する部族のシンボルとして描かれたという説や、近辺の道の通行者に馬を宣伝するための広告だったという説など、多岐にわたる主張が唱えられている。
地元に暮らす人々の間では、聖ゲオルギオスが倒したドラゴンの図だと伝えられていたという。

イングランド・ドーゼット州ドーチェスターの北、サーンアバス近くの丘の斜面には、「サーンアバスの巨人」と呼ばれるヒルフィギュアが刻まれている。

「サーンアバスの巨人」は、幅約30センチの線で描かれた巨大な裸の男のヒルフィギュアである。
長さ55メートル、幅51メートルという巨大なサイズで描かれた巨人の右手には、長さ36メートルの巨大な棍棒が握られている。

サーンアバスの巨人

中世の記録には、巨人の右上に位置するこの丘の土塁についての記述はあるものの、巨人に関しては触れられていない。
そのため、この巨人はそれより後に作られたもの、つまり約400年ほど前に制作されたのではないかと推測されている。
先述の「アフィントンの白馬」は、この巨人のすぐ近くに描かれているが、白馬については、中世の記録にも残っている。
このヒルフィギュアについての最も古い記録は、1694年の補修費用についてのもの。1751年のガイドブックには「前世紀に作られた」と記されている。

現在の説では、イギリス市民革命時に、荘園領主ホレス卿の家来によって作られたと考えられている。
その時代、敵対者から「イギリスのヘラクレス」と嘲笑されていたオリバー・クロムウェル(イングランド共和国初代護国卿を務めた)を揶揄するために描かれたのではないかとも推測されている。

巨人は大きな睾丸と勃起した男性器が描かれているため、昔から生殖や豊穣の象徴とされており、現在でも子供を望むカップルが訪れるラッキースポットとなっている。

3.現代に生き残る「悪魔崇拝者」

イギリスでは今なお「悪魔教」への入信パーティーが行われているとされる。
その主張は、人間本来の幸せは、悪魔の弟子となって身も心も悪魔に捧げ、その呪力を身につけることにあるとする集団が、ロンドン市内で呪術の儀式を行っているとまことしやかに噂されている。

入信者はまず、アルコールで全身を清めることが求められる。
準備が整うと、司祭である魔女に聖水を頭から掛けられ、キスの洗礼を受ける。
次に、新たな入信者の指にナイフで傷がつけられ、その傷から滴り落ちる赤い血が銀のカップに容れられる。
入信者が血の入ったカップを両手で持つと、魔女は呪文を唱えながら、先ほど入信者の指を切ったナイフを銀のカップに突き立てて入信パーティーは終わる。
このあと、入信者が誓いの言葉を宣言し、盛大な宴会が繰り広げられた後に、呪術による悪魔との結婚式へと移る。

ロンドン市内で行われているという
悪魔教の儀式

彼らは悪魔との結婚が人間にとって最高の幸福と考えている。
結婚式では、真っ暗闇の中、黒マントを着た呪術の魔神によって進められる。
彼らは、主として女性が好きな男性を得るため、または嫌いな男性と縁を切る手段として、この呪術を使っているという。

4.死後も書き続けたチャールズ・ディケンズ

19世紀のイギリスを代表する作家、チャールズ・ディケンズ。
その生涯で「オリバー・ツイスト」「クリスマス・キャロル」「デイヴィッド・コパフィールド」「二都物語」「大いなる遺産」といった国民的な作品を多数執筆している。

チャールズ・ディケンズ

ディケンズは1870年6月9日、ケント州ギャッズ・ヒルの邸宅で、脳卒中により58歳で亡くなった。
晩年に執筆を続けていた「エドウィン・ドルードの謎」は、未完のまま残されることになった。

ところが、突如この作品を完成に向けて書き始めた青年がいた。アメリカはバーモント州に住むS.P.ジェームスだ。
ジェームズは1872年12月25日から、未完部分だった後半の執筆を始め、翌年7月8日に完成させたのである。彼は「ディケンズとの霊界通信によって書き上げた」と話している。
ディケンズとは縁もゆかりもない無学の青年が執筆したにもかかわらず、その内容は前半部分とぴったりと連続し、ディケンズの文体からスペリングの癖まで、何もかもがディケンズと一致していた。

ジェームズが完成させた「エドウィン・ドルードの『神秘』」はその後、1874年に出版されている。

5.20世紀最大級のミステリー「ネッシー」

「ネッシーがいるのかいないのかはもはや問題ではない。捕まえられるかできないか、そこが問題だ」
アメリカのネッシー捜索隊の隊員はこう話している。

最古のネッシーの目撃記録は、西暦565年、アイルランド出身の聖職者・コルンバの生涯に関する伝記「聖コロンバ伝(690年頃執筆)」内で触れられている発見報告になる。
コルンバはスコットランド北部に住む異教徒へのキリスト教布教活動を行っていた際、ネス湖でネッシーと遭遇したと記されている。

ヒュー・グレイが撮影したネッシーとされる写真

目撃例が急激に増加したのは1933年以降とされる。
この時期にネス湖周辺の道路が整備され、多くの観光客がネス湖を訪れたためとされる。
1933年5月には、ネス湖畔でホテルを経営するマッケイ夫妻の目撃談が新聞に報道され、注目を集めた。
同じく11月には、ヒュー・グレイによってネッシーとされる写真が撮影されている。
翌1934年には、後にトリックで写真であることを撮影者が公表し、大きな話題となった通称「外科医の写真」がデイリー・メール紙に掲載され、世界的に大きな反響を呼んだ。
この「外科医の写真」は、トリックと判明した現在でもネッシーのパブリック・イメージを固めた写真として、広く流布されている。

後にフェイクであることが判明した
「外科医の写真」

ネッシーの存在が世界に広く知られると、世界各国から科学者や探検家が捜索隊を組織し、ネッシーの調査にあたっている。
たとえば1962年、イギリスの下院議員のデヴィッド・ジェームズの呼びかけに応じて、ネッシーの調査研究と将来の保護を考える志願者がイギリス各地から集まっている。

また、1968年にはバーミンガム大学電気工学部のヒュー・ブレースウェート、ゴードン・タッカー両教授が、音波を利用した水中探査機を使って2週間にわたってネス湖の水中生物の科学調査を行った。
この調査では、ソナーが2回に渡って「正体不明の移動動物」をキャッチしている。
そのひとつは、固定から水面に向かって上昇する動きを見せ、大きさは少なくとも50メートルはあったと報告されている。
もうひとつは、この信号よりも更に大きく、移動速度は時速28キロを記録している。

20世紀後半の調査では、それまで水中に生息していたとされていた竜脚類の大型恐竜は実際には陸生であったらしいことが判明し、ネッシーがアパトサウルスやディプロドクスなどの生き残りである可能性は薄らいだ。

一方で、ネス湖には普通の魚とは異なる大型の生物の存在も確認されており、いまだにネス湖の怪獣伝説は解明されていない。