天狗にさらわれた少年

「天狗にさらわれた少年」寅吉の足跡をたどる旅 Part.1【東京・上野編】


江戸時代末期、天狗のもとで修行をし、「仙境」について学んだとして、当時の江戸の知識人の話題をさらった少年・寅吉。彼については、国学者・平田篤胤が「仙聞異聞」として後世に残してくれた。寅吉の証言を元に、彼がいつどこで天狗に出会い、その教えを受けたのか、彼の足跡を実際に当時の現場を歩きながら見てみたい。

▼目次
寅吉が預けられた山崎美成邸「上野三丁目」
寅吉の生家界隈へ向かう「元浅草一丁目」
寅吉が老翁と出会う「五條天神社」

寅吉が預けられた山崎美成邸「上野三丁目」

平田篤胤が少年・寅吉の噂を聞きつけたのは、1820年10月1日午後4時頃と、はっきりと記録に残している。屋代弘賢という老人が尋ねてきて、「天狗のもとで修行をし、現在は天狗の使者をしている子どもがいる」旨を伝えている。
その話を聞いた篤胤はよほど興奮したのだろう、そのときちょうど友人が来訪していたのにも関わらず、「すぐに戻るから」と言い残して、屋代翁とともに、その少年のもとに向かっている。

寅吉は、かつての篤胤の弟子で、山崎美成という薬種商の家にいるという。
家は下谷の長者町にあった。現在の住所では、台東区上野三丁目あたりに相当するようだ。
まずは、そこに向かってみることにした。

現在の台東区上野3丁目。この近辺に山崎美成の家はあったのだろうか

当然ながら、文政年間の趣など微塵も残っていない。
それでも、かつてこの近辺の路々を、篤胤や寅吉が歩いていたのかと考えると、見慣れたはずの上野の街も、まったく違った風景に見えてくる。

湯島天神の男坂下にあった篤胤の家から、美成の家のあった上野3丁目までは徒歩で約10分。
原著では「七〜八町ほど(約760〜870メートル)」とあるので、下記の地図上に打った地点から、それぞれの家は離れていると予想される。

篤胤邸から美成邸への、おおよその地図

美成邸に着くと、噂の子どもを呼び出して会わせてくれた。
特に変わった様子のない、普通の子どもに見えたという。
年齢は15歳というが、見た目は13歳程度に見える。
「特に変わった様子のない」と言いながらも篤胤は、「眼は人相家に下三白と称ふ眼にて」「眼光人を射るといふ如く」「面貌すべて異相なり」と、なんか変な顔の子どもだなあと、書き残している。

寅吉の風貌画(右上)

寅吉は1806年12月31日に、越中屋惣次郎の次男として生まれる。
父親はすでに他界しており、母と兄との三人で暮らしている。

後に篤胤が寅吉の母から聞いたところによると、幼い頃から事前に火事を予知したり、親しい人に「明日、怪我をするから気をつけろ」と知らせたりといった、特異な能力を発揮していたという。
これらの「予知」は、寅吉いわく「何やらむ耳の辺にて、ざわざわと云ふ様に思ふ」、つまり、誰かが耳元で教えてくれると話している。
後の師となる天狗が、すでに幼い頃から目をかけていたのかもしれない。

寅吉の生家は下谷七軒町(現在の台東区元浅草一丁目界隈)にある。
実家から美成の家まで、どれくらいの距離があるのか、実際に歩いてみた。

寅吉の生家界隈へ向かう「元浅草一丁目」

美成邸から寅吉の生家のあった元浅草一丁目付近まで、徒歩で約12分。距離にして約1キロ程度離れている。

美成邸から寅吉の生家界隈まで、ほぼ一直線であることが分かる

寅吉の家は「裡住居(うらずまい)のただ一間ある家にて、母のみ居たり」と記されている。
粗末なひと部屋しかない家に、母と兄弟3人で暮らしていたという。

寅吉の生家があった台東区元浅草一丁目の現在の風景

現在でも閑静な下町の住宅地といった風情のある元浅草には、古くからのお寺が数多く残っている。
そのひとつ寿量山妙経寺(台東区元浅草2-5-13)には、1611年から現在の地にあるという銅鐘が今も残る。きっと、寅吉もこの寺の鐘の音を聞いていたに違いない。

妙経寺の銅鐘

寅吉は篤胤に、自らが体験した奇妙な体験の、きっかけから説明している。
1812年、寅吉が7歳になったときのこと。
池之端茅町(現在の台東区池之端一丁目から池之端四丁目辺り)の境稲荷神社の前にいた占い師が、寅吉の家の前に出張し、日々占いを行っていた。その様子を毎日飽きずに眺めていたという。
自分も占いをやってみたくなり、占い師に「教えてくれ」と頼むも教えてくれない。
もやもやした気持ちを抱えていたころ、寅吉は天狗に出会い、占いも含めたあらゆる知識を授けられる。

これは、境稲荷神社まで行かなければなるまい。

寅吉の生家付近から境稲荷神社までを往く

寅吉の生家から境稲荷神社までは約2キロ。時間にして約20分強掛かる。
占い師は「卜筮(ぼくぜい)」と呼ばれる、さまざまな獣の毛を用いて占っていた。
荷物が少ないとはいえ、椅子や小さなテーブル状のものも運んでいただろう。
大人の脚でも、毎日通うとなるとなかなか面倒な距離ではある。

境稲荷神社

境稲荷神社は、東京大学医学部附属病院の裏手にひっそりと残っている。
敷地は写っている鳥居と奥の社殿のみ。非常にこじんまりとしている。
裏手には小さな井戸が残っている。
この井戸は、源義経一行が東北へと向かう際に弁慶が見つけたという伝説が残っている。
また、東京大空襲の際にも涸れることなく、被災者を飢渇から救っている。

境稲荷神社の井戸

寅吉が天狗に見いだされ、仙境の世界を垣間見るきっかけとなった占い師は、この土地に住んでいた。そう思うと、少し感慨深い気持ちになる。

寅吉が老翁と出会う「五條天神社」

結局、占い師からその術を教えてもらうことのなかった寅吉が、その年の4月に東叡山寛永寺の山の下で遊んでいると、ふと五條天神社のあたりが気になった。

そこには、50歳ほどに見える、長く伸ばした髪を結んで旅装束に身を包んだ老翁がいた。
その老翁は、口の周りが約12センチほどの小さな壺から丸薬を取り出して売っている。
売り終えて商売道具を片付けるのが見えた。
すると、カゴから敷物まで、あらゆる道具がその小さな壺に入ってしまう。
さらに、老翁自身も壺の中に入ろうとする。
どうするのか? と見つめていると、老翁の片足が壺の中に入ったかと思うと、身体すべてがストンと入った。と同時に、壺は天高く舞い上がり、どこかに飛んでいってしまったという。

五條天神社に早速向かう。

現在の五條天神社。1928年にこの地に遷座した

五條天神社は、古くから無病息災、病気平癒など健康にまつわるご利益があるという。
老翁も、そのあたりを踏まえて、この地で行商に励んでいたのかもしれない。

現在の五條天神社も非常に空気の澄んだ美しい場所だが、1812年当時は、別の場所にあった。

当時の場所は、現在の上野駅前にあるヨドバシカメラの脇。
「東叡山寛永寺の山の下で遊んでいると、五條天神社前に老翁がいるのが見えた」と寅吉は語っているところを考えると、幼い彼が遊んでいたのは、上野駅京成乗り場から出てすぐ、西郷隆盛像へと向かう上野公園の長い階段の辺りではないかと思われる。

寅吉の生家のあった元浅草一丁目から五條天神社(当時)への地図

不思議な老翁を見た寅吉は、それから毎日五條天神社へと通う。
7歳の子どもにとって毎日1キロの距離を親の付き添いなく歩いていくのは、割と大変なことではないかとも思うのだが、当時はそんなことはなかったのだろうか。

何日も通っているうちに、老翁は寅吉に声をかける。
「お前もこのツボに入りなさい」
さすがの寅吉も怖気づく。それは当たり前だ。現代の大人だってきっと怖気づく。

「お前は卜筮(ぼくぜい・占いのこと)を知りたいのだろう。知りたいのなら、この壺に入って私と一緒に来なさい。教えてやろう」
どう考えても、不審者だ。
いや、小さな壺に入って空を飛ぶ段階で、すでに不審者か。

占いについて学びたいと思っていた寅吉は、まんまとその罠にハマってしまう。
壺の中に入ったような気がすると、あっという間に知らない山の頂きに着いた。

そこは、現在の茨城県にある「南台丈(難台山)」だったという。
そして日が暮れる。
夜になると心細くなり、泣き出す寅吉。
老翁も慰めたが、いよいよ慰めかねると、寅吉を背負って目を閉じさせ、大空に舞い上がった。
あっという間に自宅前に帰っていた寅吉に、「このことは誰にも言ってはいけない」と言付けて、老翁は去っていった。

この老翁が、後に寅吉の師となる「杉山僧正」だった。

▶▶▶パート2へと続く