寅吉が修行した正慶寺

「天狗にさらわれた少年」寅吉の足跡をたどる旅 Part.2【寅吉・修行編】


江戸時代末期、天狗のもとで修行をし、「仙境」について学んだとして、当時の江戸の知識人の話題をさらった少年・寅吉。彼については、国学者・平田篤胤が「仙聞異聞」として後世に残してくれた。寅吉の証言を元に、彼がいつどこで天狗に出会い、その教えを受けたのか、彼の足跡を実際に当時の現場を歩きながら見てみたい。

▼目次
寅吉・道に迷う「元浅草一丁目〜駒込近辺」
寅吉・修業の日々「池之端近辺」

寅吉・道に迷う「元浅草一丁目〜駒込近辺」

当時、寅吉の生家近くには「わいわい天王」と呼ばれる大道芸人が現れたという。
わいわい天王は、羽織袴に両刀を差し、天狗のお面を付けて囃子唄を歌いながら牛頭天王(ごずてんのう)の札を撒き、金銭を乞いながら練り歩いたという。
娯楽の少ない時代、さらに裕福ではなかった寅吉にとって、まさに非日常のお祭りのような感覚になったことだろう。

わいわい天王
わいわい天王

原著には「天王様は囃すがおすき、囃せや子ども、わいわいと囃せ、天王様は喧嘩がきらひ、喧嘩をするな間(なか)よく遊べ」と、子どもたちを引き連れて町中を歩き回っていたと書かれている。

このわいわい天王のお囃子につられた寅吉は、大勢の子どもたちとともにわいわい天王に付いて歩いていく。
気がつくと、日はとっぷりと暮れ、大勢いた子どもたちもみな家に帰ってしまっていた。
後から思い出すに、「本郷の先なる妙義坂の辺り」まで来てしまい、途方に暮れたという。

妙義坂、行ってみましょう。

寅吉がわいわい天王に着いていき道に迷った本郷通り
本郷通りにある「妙義坂」の現在の風景

寅吉の生家のあった元浅草一丁目から妙義坂までは、約5.6キロもある。
大人の足で歩いても1時間以上掛かる。
わいわい天王の口上に夢中になった寅吉は、時間も忘れて歩き続けたのだろう。

元浅草一丁目から妙義坂までの道程

寅吉の言う妙義坂の同定がこの地で合っているとすると、大江戸線の新御徒町駅から、JR駒込駅まで、ぶっ通しで歩き通したことになる。おそらく7〜8歳頃のできごとだ。
たるみきった現代人とは体力が違うとはいえ、なんとも驚くばかりだ。

困った寅吉が、ふと道脇を見ると、わいわい天王が天狗のお面を取るところが見えた。
素顔を見てみると、いつも寅吉を山に連れて行ってくれるあの老翁だった。

寅吉を家に送り届けようとする老翁とともに、ふたりで来た道を引き返して家路をたどる途中、茅町の榊原殿(榊原家池之端屋敷)の表門の前まで、寅吉の父親が探しに来てくれていることが分かる。

榊原殿(榊原家池之端屋敷)は現在、旧岩崎家茅町邸となっている

妙義坂から寅吉の家へと至る道で、榊原殿と交わるポイントは、おそらくここではないかと推測した。この道のどこかで、寅吉と老翁、そして寅吉の父親が出会ったのではないか。
ちなみにこの先には、寅吉が自宅前で見た占い師の家がある。

寅吉の父親に会った老翁は、寅吉を引き渡した。
喜んだ父親が、名前と住所を尋ねるも、老翁は適当な名前と住所を騙って、帰っていった。
後日、父親がお礼のために住所を訪ねたが、でまかせの住所だったために老翁には会えず、空しく帰ってきたという。

寅吉・修業の日々「池之端近辺」

寅吉は老翁・杉山僧正に連れられ、日々山で修行を行なう。
武術や書道、神道の知識や祈祷呪禁の方法、護符への文字の書き方など、その修業は多岐にわたったようだ。
ときには50日、100日など、長期間に渡って山内で修行をしたにも関わらず、「両親はじめ家の者たちは、私がそのように長く家にいなかったとは思わなかったようでした」(「天狗にさらわれた少年」角川ソフィア文庫)と、寅吉は語っている。

山を行き来したのは7歳の夏から11歳の10月まで続いた。
12〜13歳になると山に連れられることはなく、たまに杉山僧正がやってきて何かしらを教えてくれるだけとなる。

そのうち、禅宗の教えも覚えておくようにと老翁に言われ、寅吉は近所の正慶寺に奉公することを決意する。

寅吉が初めて奉公した池之端の正慶寺
現在の正慶寺

寅吉の家から正慶寺までは、徒歩で約30分。上野を挟んだ向こう側にある。

寅吉の家から正慶寺までの道のり
寅吉の家から正慶寺までの道のり

正慶寺には秋から奉公する。禅宗の経文などを学び、禅宗の基本的な教義について習った。
12月には修業を終えて家に帰ったというから、期間は約3ヵ月程度だろうか。

翌1818年正月から、今度は日蓮宗の覚性寺での修業に入る。
目的はおそらく正慶寺と同様、日蓮宗の基本的な知識を身に着けようというものだろう。

1818年に寅吉が修行した覚性寺
覚性寺

直前まで修行していた正慶寺と覚性寺は、ほぼお隣さんだ。
「あいつ、この前までうちで勉強していたのに、今度はよその教義を学んでいやがる」といった、イヤミを言われたりはしないものなのだろうか。
それとも幼いのに勉強に熱心だと、褒められるのだろうか。

寅吉の生家から覚性寺までの道のり
寅吉の生家から覚性寺までの道のり。すぐ北に正覚寺がある

1月に覚性寺での修業に入った寅吉だが、2月に長年患っていた父親が亡くなっている。
それでも修行を続けていると、寺に大切なものをなくしたと語る人が相談に来ているのに出くわした。
なんとはなしに聞いていると、耳元で「それは人が盗んだのだ。探している物は、広徳寺の前にある井戸の側に置かれている」と誰かがささやく。
その言葉をそのまま伝えると、後日、本当にその場所にあった。
探しものが見つかったことを喜んだその人は、多くの人々に寅吉の話を伝えたために、覚性寺には「占ってほしい」と、引きも切らぬ客が押し寄せるようになる。

やがて、「こんな幼い子どもに、私が怪しげな術を教えていると世間に思われては困る」と寺の住職に言われてしまい、寅吉は寺を追い出されてしまう。

次に奉公に出る宗源寺には、1ヵ月ほど家でブラブラした後、1818年4月に弟子入りしたと語っているところから、覚性寺にいた期間は1818年の1月から3月頭まで、実質約2ヵ月ということになる。
その間、父親が亡くなり、喪に服していた時期もあっただろうことを考えると、実際に修行を行ったのは1ヵ月半程度と考えるのが自然かもしれない。
そのわずかな期間に、寅吉は周囲の人々から大きな注目を集めてしまったということになる。

先ほど述べた通り、1818年4月から寅吉は日蓮宗の宗源寺での修業に入る。
覚性寺と同じ日蓮宗を選んだのは、やはり覚性寺では満足な知識を得られなかった、ということだろうか。

寅吉が剃髪して修行に励んだ宗源寺
現在の宗源寺

寅吉はこの寺で初めて剃髪し、本格的な修業に入る。
真の弟子にならなければ教えてもらえない秘事があったからだという。
ここでの修行期間は明言されていないが、翌1819年5月には杉山僧正とともに西へと旅立っているところを見るに、1年程度だったのではと考えられる。

▶▶▶Part.3に続く