古来から怪異譚、妖怪譚は多く残されてきた。文明開化を遂げた明治時代以降もそれは変わらない。100年前の時代を生きた先人たちは、どんな怪異を目の当たりにしたのか。どんな現象に恐怖を感じていたのか。今回は「怪談百物語妖怪研究」より、現在の東京都千代田区神田猿楽町近辺で実際に起こった怪異をお届けする。
▼目次
離れの茶室に充満する異様な気配の正体は?
その家は町内で「幽霊屋敷」と呼ばれていた
茶室で惨殺された女を想う
離れの茶室に充満する異様な気配の正体は?
僕は世の中に化け物などは、決してあるものではないという主義であった。
しかし、神田区裏猿楽町(現在の千代田区神田猿楽町近辺)に住むに及んで、不本意ながらこの主義を取り消さねばならぬこととなった。僕の出くわした事実は、どうも奇怪でならなかった。
裏猿楽町は、駿河台の真下で、ただでさえもの寂しいところであった。
家の建て方はいかにも立派で、金のかかったうちであった。
家の中には別に怪しいことはなかったが、庭に建っていた四畳半の茶座敷が、いかにも怪しくてならぬのだ。
僕も茶を点て飲むので、客を招いて茶会を行なうことがある。
また一人で茶を点てて飲むこともある。
ある夜のことであった。
僕はひとりで茶室に入って、茶を点てていると、どうしたことか、ランプがうすぼんやりとなってきた。
はて、不思議なことだ、油をどっさり注がせたはずなのに、ある日は女中が注ぎ忘れたのではあるまいかと、手をのべて取り上げて見るが、いかにも重くてタプタプと音がする。
芯が悪くなったのかと思って芯を見てみたが変わりはない。
そこで台の上に戻して、元のとおりにしてしばらく見ていると、別に変わりはない。
また茶を点てようとすると、だんだん暗くなってきて、心さえも滅入ってくるように思われる。
はて不思議だと思うと、障子にサラサラと当たるものがある。
女の髪の毛のようなものが、サラサラと当たるように思われてならない。
それと同時に、襟元から水でもかけられたようにゾッとなってくる。
またサラサラと当たるものがあるので、不思議なことだと思って、立って障子を開けてみると、月は煌々として千里を照らし、いかにもこころゆかしき晩である。
目に触れるものは何一つない。
はて解せぬと茶室に入って、ふたたび釜の前に座っていると、心がイツとなく滅入ってきて、穴の中へでも引き入れられるような気分になる。
すると風もないのに、またサラサラというかすかな音がする。
そうして辺りがしんとなってくる。嫌な心地になってくる。
僕はその場に耐えられなくなって、茶室を出てしまった。
茶室を出てみると、すぐに心がからりとなって、別天地にでも出たような心となって、いかにも心地よくてならない。
その家は町内で「幽霊屋敷」と呼ばれていた
僕は川辺と福田という名の、ふたりの書生を呼んだ。
そして彼らに「一人ひとり、茶室に入って茶を点てて飲んでみろ」と命じた。
彼らは僕とともに茶を飲むことがあるのだ。
「ありがとうございます、それでは一服ずつ頂戴いたします」と言って、ふたりとも退いた。
それから30〜40分経ったかと思うと、川辺が変な顔つきをしてやってきた。
僕はハハアとすぐに合点した。
川辺は僕のほとり近くに座を構えて言う。
「先生、実に妙なことがあります」
「どんなことだ」
「かの茶室です」
「茶室がどうかしたか」
と知らん顔をして訊けば、
「そうです。いま福田くんがお茶をいただいています。なんといって出てきますかね」
「なにか怪しいものでも見たのか」
「いえ、怪しいことは見ませんが、怪しいことがあるのです」
「どんな怪しいことだ」
「きっと福田くんも驚いてくるでしょうから、彼と一緒に申し上げましょう。どうも先生はお人が悪い」
「なんでだ」
「ひとりずつ行って飲めなんて言うのですから」
「君もやられたか」
「なんでしょう、色々考えてみましたが、どうも解せません」
と、二人で話をしていると、福田は嫌な顔をしてやってきた。我らふたりは苦笑を禁じ得なかった。
「先生、どうにも変です」
「なにがさ」
「あの茶室です。あの障子にサラサラと当たるのは、ありゃなんでありましょうか。私はどうも女が散らし髪でもって、障子に触るのではないかと思いました。それからあのランプのだんだん暗くなるのは、一体何のためでしょう。なんの仕業でしょう。どうも不思議ですな」
「私も今夜はじめて経験したので、私にばかり聞こえるのではあるまいか、そう感じるのではあるまいかと思って、それで両君をやってみたのだ。やはり君等にも怪しく思われたか」
「どうも変です。先日、車夫の松公が言いますには、『世間ではこのお屋敷を化け物屋敷と言っていますが、なにも怪しいことはありませんか』と言うのです。私どもには怪しいことはなかったので、まあ化け物は出そうもないよ、奥でもなんの噂もないから、何も出ないのだろうと言ってやりましたが、思えばこれでしたね」
「もう2〜3回実験してみて、いつもこの通りなら、ひとつあの茶室を改めてやろうじゃないか」
「そうしましょう。世間の疑いを晴らすにも良いでしょう。ひとつやってごらんなさいまし」
これから僕ら3人で、変わり代わり茶を点ててみたが、昼のうちはなにも怪しいことはないが、夜はいつでも怪しいことに出会う。
いかにも心外でならぬから、車夫も入れて4人でいよいよ調べてみることにした。
茶室で惨殺された女を想う
家主にも当たってみた。家主は大喜びである。
なぜかというと、これまでの借り主は、なんとも言わずにさっさと引っ越ししてしまって、理由を一度も言っててくれたものはない。
しかしあなたがたは、自ら進んで調べてみるとおっしゃる。なんの不服がありましょう、十分にお調べくださいというのだ。
それからもし茶室に怪しいことがあるなら、シカと取り払って、庭にでもしてみたらどうでしょうというのであった。
家主もあまり借主に変わられるので、ほとほと困っていたらしい。
そこへ、僕がここが怪しい、他はなにも不思議はないというので、大いに喜んだのだ。
家主の同意も得たから、ある日曜の休暇を潰して、4人がかりで畳を起こし、床板を剥がし、まず炉の中の灰を取り出した。
だんだん取り出していくと、不思議なものが現れてきた。
それはなにかというと、女の髪の毛である。
僕ら4人は実に顔の色を変えた。
どうも怪しい、これは1つ深く探らねばならぬとだんだん深く掘っていったが、髪の毛の他には何一つ出たものがなかった。
けれども髪の毛の下のところに、どうも怪しいところがある。
いまは変色してなんの仔細もないようであるが、どうしても多量の血液の土化したものとしか思われぬのだ。
なぜなら、どことなく生臭く、嫌な匂いがするからである。
僕は家主に急使をやって呼び寄せて、実際に見せたところ、震え上がって驚いていた。
今の家主は買い取ってからわずか5年にしかならないという。
前の家主は、買い入れて自らの住処にしていたが、どういうわけか急に引っ越してこの家を売り払ったそうだ。
家主は僕の承諾を得て、茶室を取り払ってしまった。
そうして今日も僕は住んでいるのであるが、その後はなにも怪しいこともなければ変なこともない。
家主はその髪の毛を菩提寺に収めて、懇ろに弔ってやったとのことだった。
僕はいかなるものがこの家を建て、いかにしてかかる怪しきことが生じたのか、これを調べてみたく思って、それからそれと手をのべて調べてみたら、この家を建てたという大工の棟梁を尋ね当てた。
その話を聞いてみたら、相も変わらぬ妾物語だった。
この家を建てた人は、維新の際に勲功を立てて、明治の御代になってから、廟堂に列する大官となった人であった。
英雄色を好むとの世のことわざのごとく、この人もまた世に聞こえる好色家だった。
どうもこの好色家というやつは常軌を外れたことをやってならぬものだ。
この人も自分が気に入ったとて、嫌がるものを無理に金にあかして我が意に従わせたが、この女には意中の人があって、かねてねんごろなる仲となっていたので、誘いを断ったけれども、欲に目のくれた父母のために無理にこの大官の意に従うことになった。
しかし、この屋敷に来てからも、意中の相手とは互いに手紙のやり取りをして、寂しい心を慰めていた。
しかし、ついに大官にその手紙が見つかった。
大官は激怒し、その女は茶室でなぶり殺しになったとやら、遺体は何処かへ埋めたといった噂が辺りに広まったが、明治維新で間もない頃でまだ政情も混乱しており、また飛ぶ鳥を落とす勢いのあった大官だったので、うやむやのうちに葬り去られたということであった。
しかしそれが原因なのか、ほどなくして大官も世を去り、その子の代となってから、すぐにこの家を売り払って国元へ帰ってしまったとのことだ。
世間の化け物屋敷というものは、たいてい悲惨な歴史を持っている。
しかし、その歴史はどれもこれも、均しく男女の醜関係から起こっている。
そうしていつも主人公となるものは、みな女そのものである。
なんと憐れむべきことではないだろうか。
僕は婦人のことを思うと、涙が流れるのを堪えられないのだ。