夜泣石の伝説に迫る

異界散歩 File04 全国に伝わる「夜泣石」の伝説を追う


夜になると悲しげに泣く石にまつわる伝説は全国各地に残されている。そのなかでも、江戸時代後期にもっとも有名となったのが「小夜の中山夜泣石」の伝説だ。無残に殺された妊婦の腹から生まれた赤子と、女性の霊が乗り移った石の伝説が融合し、魅力的な復讐譚となっている。果たしてこの「夜泣石」の伝説はどこまでが真実なのか? 残された書物から、伝説を読み解く。

▼目次
「小夜の中山夜泣石」にまつわる伝説
千葉県にもある「夜泣石」の伝説
夜泣石は本当に石が泣いているのか?
夜泣石の正体は「夜泣松の近くにあった石」

「小夜の中山夜泣石」にまつわる伝説

「小夜の中山夜泣石」といえば、かつては誰もが知る有名な講談だった。
ある妊婦が、中山の地で盗賊に惨殺された。その妊婦の遺体から、赤ん坊が出て泣いているのを通りがかりの僧侶が見つけ、連れて帰り養育した。
救われた赤ん坊は、成人した後に育ての僧侶から生まれの由来を聞き、艱難辛苦の末に母親の敵を討った。

かつての赤ん坊が泣いていた側に、大きな石があったが、妊婦の霊がその石と化して夜になると泣くので、その石を「夜泣石」と呼んだというのが大まかなストーリーだ。

この夜泣石は、古くから文献に記されている。
1805年に掛川藩主の命により編纂された「掛川志稿」には、「高三尺許、経三尺餘、驛路の中にある圓石也。土人或は丸石と呼ぶ。南無阿弥陀仏の五字を刻せり。何人の書なるを知らず。相傳ふ、昔此中山にて妊婦夜陰に山賊の為に殺さる。其時此石及久延寺の松樹悲泣せしより名とすると云ふ」とある。

夜泣石の写真(「日本地理風俗大系 第5巻」(1929年)より)

また、「煙霞綺談」には「小夜の中山夜啼石と云はやせしは亨保の中程よりのことなり。其始め久延寺近き並木の松に古木有りしを、土俗夜哭きの松と呼び、古き道中記にも見えたり。彼の孕女を殺害せし跡なりと云へり。亨保の中頃雷堕ちて松枯れたり。其近きあたりに丸石と云ふあり。昔より往来の眞中にあり。夜哭きの松枯れて、後此石へ夜啼の名を写して浄瑠璃にも作り出せしより、いよいよ世上夜啼き石の名高し」とある。

この夜泣石は、もともと久延寺の側にあったが、現在では国道1号線沿いに横たわっている。
場所が移っている理由に関しては諸説あるが、そのうちのひとつにこんな説がある。
明治初年、東京で夜泣石の見世物イベントが開催されることになり、運搬することになった。
やっとのことで夜泣石を東京まで運んだが、そのときには見知らぬ香具師が先回りをして、適当な大石を使って「夜泣石」の公開を行っていた。
香具師は、石の裏に本物の赤ん坊を仕込んでおり、隠して泣かせることで観客は大喜び。大人気を博していた。

そこに現れた本物の夜泣石。ようやく公開となったところで、大きな丸石がごろんと転がっているばかりでなんの変哲もない。見物人たちもまったく寄り付かず、一行は帰りの旅費にも困って、夜泣石をそのまま置いて引き上げてしまった。

後に、ようやく現在の場所まで運び戻したものの、元あった場所まで引き上げることはできず、そのままになったという。
とはいえ、東京から掛川まで運んでおきながら、あと少しの距離を諦めたというのはなんとも違和感がある。おそらく、位置が変わった理由は、もっと違うところにあるのだろう。

現在の夜泣石の位置と、久延寺の場所(南側)

小夜の中山夜泣石には、別の言い伝えもある。
殺された女の胎内から出生した嬰児は、僧侶ではなく通りがかった研屋に拾われたというストーリーだ。
研屋に拾われた嬰児は、後年その店先にやってきた浪人による何気ない昔話から、自身の生まれの秘密を知り、苦労の末に母親の仇を討つ。その後、峨山和尚の弟子となり、修業を経て通幻和尚となった。そして、通幻和尚は福井県越前市の龍泉寺を開山したと言い伝えられている。

千葉県にもある「夜泣石」の伝説

この通幻和尚が開山したとされる寺が千葉県にもある。
千葉県市川市国府台にある総寧寺は、1383年に近江守護の佐々木氏頼が通幻和尚を招聘し、同国坂田郡寺倉村(現・米原市寺倉)に総寧寺として建立したのが始まりとされる。
奇妙なことに、この総寧寺にも夜泣石の伝説が伝わっている。

総寧寺

総寧寺の夜泣石は現在、かつて戦国時代に北条氏と里見氏が激戦を繰り広げた里見城址に作られた、里見公園内に寂しく雨ざらしに置かれている。
この夜泣石は、小夜の中山夜泣石とは異なり、横30センチ、縦60センチ、高さ30センチ程度の、扁平な石である。この石にまつわる伝説も複数ある。

里見公園内の夜泣石

19世紀始めの紀行本「嘉陵紀行」によれば、総寧寺の第28代の住職が裏の山から鬼が哭く声を聞き、その場所をたしかめ穴を掘ったところ、この石が出てきた。
この石を祀って塚を作り供養すると、以来、鬼が哭く声が収まったと伝えている。

戦国時代の激戦地であったためだろう、戦いにまつわる伝説もある。
国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出した。このとき、里見軍の武将・里見弘次も戦死したが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、安房の国(南房総)から国府台の戦場にやってきた。
12〜3歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまう。
それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになった。
そこで、村人たちはこの石を「夜泣石」と呼ぶようになったが、その後、一人の武士が通りかかり、この姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったと伝えている。

しかし、里見弘次は1564年の国府台合戦で戦死しており、享年わずか15。
いかに昔は早婚だったとはいえ、15歳に12〜3歳の娘がいるわけがない。
市川市教育委員会は、「この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。」と分析している。

通幻和尚には「子育て幽霊」の幽霊によって育てられた赤ん坊の後身であるという伝説が各地に残されているが(通幻が開山した兵庫県永澤寺、福井県龍泉寺、鳥取県香林寺(※現在は永明寺))、夜泣石についても同様の伝説がついてまわっているのは偶然だろうか。

夜泣石は本当に石が泣いているのか?

通幻和尚の伝説が各地に伝わる同様に、夜泣石も全国各地に同様の言い伝えが残されている。

木内石亭が18世紀後半に著した岩石や鉱物の博物誌「雲根志」には、次のような逸話がある。
滋賀県の金勝山で以前、寺を建立する際に石工が大石を求めて岩を掘っていると、岩の穴から血が吹き出して、同時に近くにいた数千の牛が一斉に吠えるように鳴いたので、石工も驚いて、そのままにしておいたが、世間では「泣石」と言っている。
また、佐賀県唐津市安楽寺の山の上にも、雨が降れば犬が吠えるように泣く石があり、これも泣石と伝えられている(「雲根志」前編巻三)。

この泣石は、小夜の中山夜泣石や国府台の夜泣石と異なり、動物が鳴くような声を発するところが珍しい。

ほかにもある。
山梨県宮久保村には「女夫石」がある。言い伝えによれば、村内に凶事があるときは、この石が泣いて知らせるという(「甲斐国志」巻三十)。兵庫県たつの市にも、同様の凶事を泣いて知らせる石の伝説が残っている(「播磨鑑」)。

広島県福山市の村にある赤石は、石工が切ろうとすると赤ん坊の泣き語を出す(「福山志料」巻十五)。愛知県の村には、夜泣塚があり、他にも鬼塚、手切塚といった不気味な名前の付いた塚がたくさんある(「尾張志」)。

小夜の中山夜泣石の伝説は、中山だけに限られたものではないことがよく分かる。
では、小夜の中山夜泣石の伝説が生まれたのはいつ頃なのか。
「掛川志稿」には、「続太平記」からの引用として、室町時代に足利義教が富士遊覧の際に、小夜姫という女性がこの場所で殺されたとき、胎内にいた嬰児が石の上で夜泣きするので夜泣石と呼んだと載せているが、これはおそらくデマであろう。
「國書解題」によれば、「続太平記」は徳川中期に浪人が書いたものとされている。職に困った浪人が、話を面白く盛って作ったエピソードだろうと思われる。

江戸時代後期に書かれた「煙霞綺談」には、小夜の中山夜泣石の話は古い時代には見えない。亨保(1716年から1736年まで)の中頃よりのこととあるのが、事実に近いのは間違いない。

ではなぜ、夜泣石の伝説が広がっていったのか。
「枕草子」には「くるしげなるもの」として、夜泣きというものする児の乳母とあるように、平安時代の昔から、赤ん坊が夜泣きするのは、子育てをする親にとっては苦しい困りごとだった。
この苦しみを取り除くために、古来からいろいろと工夫したに違いない。

しかし、医学が発達していない時代、その工夫が「まじない」だったり「迷信」にすがりたくなるのはやむを得まい。
夜泣石の伝説は、この夜泣き封じの迷信から生じている。
そして、夜泣き封じの迷信にはなぜか、昔から松の木が多く用いられてきた。

夜泣石の正体は「夜泣松の近くにあった石」

夜泣きを止めるにあたって、松を用いた例は多く残されている。
伊豆の三島から修善寺へと向かう道の岩の上に、かつて2株の松があった。
昔、ここに山道があった時代には、赤ん坊が夜泣きするときには、この松の葉か幹を燃やして、その光を見せると止まったと伝えられており、その松の幹には多くの斧の跡があったという(「日本傳説集」)。

福岡県筑前町のある神社のそばには、そのままズバリ「夜泣松」があった。
これも同様に、夜泣きする赤ん坊にこの松を燃やして見せると夜泣きが収まるというので、村人たちは木の幹を削り取って使ったと伝わっている(「筑前続風土記」巻十一)。
似たような逸話は、三重県、長野県、兵庫県など、全国各地に存在する。

また、千葉県のある寺の前にある小さな橋は「夜泣橋」と呼ばれ、夜泣きをする赤ん坊をこの橋であやすと夜泣きが収まるとされた。同様の橋は三重県にも存在した。

これは想像するしかないが、おそらくこれらの橋の近くには、かつて松があったか、またはこれらの橋が昔、松でできていたのではなかろうか。

つまり「夜泣松」というのは、「夜になると泣く松」を指すのではなく、夜泣きをする赤ん坊をあやすために用いた松ということになる。
夜泣石も同様に、「夜になると泣く石」というのは夜泣石と呼ばれるようになってから作られて逸話で、赤ん坊をあやすために用いた夜泣松の近くにあった石、ということなのではないか。

小夜の中山には、古くから「夜泣松」だけがあって、「夜泣石」は存在しなかったことは、浅井了意の書いた紀行本「東海道名所記」によって明らかだ。

小夜の中山より、十町ばかりを過ぎて、夜泣の松あり。此の松をともして見すれば、子供の夜泣き止むるとて、往来の人削り取り、切り取りける程に、その松遂に枯れて、今は根ばかりに成けり。

東海道名所記
東海道名所記

先に引用した「煙霞綺談」にもこうある。

小夜の中山久延寺に近き並木に、松の古木ありしを、土俗夜泣の松と呼ぶ。古き道中記にも見えたり。彼の孕み女を殺害せし跡なりといへり。亨保の中頃、雷落ちて此の松枯れたり。その近きあたりに、丸石といひて、昔より往来の眞中にあり云々。

「煙霞綺談」

この丸石こそが、後年「小夜の中山夜泣石」と呼ばれたもので、亨保年間(1716年から1736年)までにはなかった夜泣石が、寛政9年(1797年)に書かれた「東海道名所図絵」には載っていることから想像するに、この前後に何者かが作り上げたエピソードであることは間違いないだろう。

東海道名所図絵の佐夜の中山

夜泣松の話よりも、夜泣石のエピソードのほうが、数段面白かったがために、広く全国に知れ渡ったということだろう。